設計書1枚を書くのに、かつては丸一日かかっていた。それが今、AIを使えば15分で仕上がる。素晴らしい業務改善だ——経営者は、そう思うだろう。
「それなら、ノルマを5倍にできるな」
経営者の思考は、おそらくこう続く。「1日1枚だった設計書が、理論上は1日32枚書ける計算になる。控えめに見積もっても5枚は書けるはずだ。素晴らしい生産性向上だ」と。
ここに、AIがもたらす「罪」の本質がある。効率化で生まれた時間は、従業員には還元されない。
残業時間は減らない。帰れる時間が早くなるわけでもない。AIが短縮した7時間45分は、そのまま「追加の仕事を詰め込む余白」として経営側に吸収される。
5倍の仕事は、5倍の責任を意味する
ここで見落とされがちな問題がある。仕事量が5倍になるということは、責任も5倍になるということだ。
設計書1枚であれば、その1枚に集中してレビューし、品質を担保できる。しかし5枚となれば話は別だ。同じ勤務時間で5枚の設計書の品質に責任を持たなければならない。
- チェックにかけられる時間は5分の1になる
- 見落としのリスクは確実に上がる
- しかし「AIが作ったから」という言い訳は通用しない
- 最終的な責任は、すべて人間が負う
ROI計算に入らないコスト
AIプロジェクトを提案すると、必ず聞かれることがある。「どれだけのコスト削減が見込めるのか」と。
答えは簡単だ。削減された作業時間に人時単価を掛ければ、数字は出る。1日7時間短縮 × 時給3,000円 × 20日 = 月42万円の削減。経営者は満足げに頷く。
しかし、この計算には決定的に抜け落ちているものがある。その人が辞めてしまったときに失われる企業価値だ。
考えてみてほしい。AIで作業時間が5分の1になっても、その人の仕事は楽にならない。空いた時間には5倍の仕事が詰め込まれる。AIが生成したアウトプットの品質責任は、すべて自分が負う。給料は変わらない。
「効率化」の名のもとに、仕事量と責任だけが膨れ上がる。これで働き続けたいと思う人が、どれだけいるだろうか。
そして優秀な人ほど、先に辞めていく。残されるのは——
- その人だけが持っていた暗黙知とノウハウの喪失
- 10年かけて築いた取引先との信頼関係の断絶
- 後任の採用・教育に必要な莫大な時間とコスト
- 引き継ぎ期間中の業務停滞リスク
これらは「時間 × 人時単価」の掛け算には現れない。ROI計算書の外側で、静かに企業価値を蝕んでいく。
AIにできないこと——それは責任を取ること
AIは設計書を書ける。コードも書ける。企画書も、報告書も、メールの文面も作れる。しかし、AIには絶対にできないことがひとつある。責任を取ることだ。
設計書にミスがあってシステム障害が起きたとき、AIは謝罪しない。損害賠償も払わない。記者会見で頭を下げることもない。すべては、そのドキュメントを「承認した人間」の責任になる。
つまり現状はこうだ。AIは仕事を5倍速くこなすが、それに伴うリスクは従業員が5倍背負う。効率化の恩恵は経営側に、リスクの増大は現場に。これが2026年現在の「AI活用」の実態ではないだろうか。
私たちはどう向き合うべきか
私自身、AIエンジニアとして日々AIを活用し、その恩恵を受けている。この記事を書いている今この瞬間も、AIの力を借りている。だからこそ、この問題から目を背けてはいけないと思う。
AIによる効率化は止められない。止めるべきでもない。しかし、その果実をどう分配するかは、人間が決めることだ。
- 効率化で生まれた時間を、本当に従業員に還元する企業——早く帰れる、休みが増える、給与が上がる
- 責任の増大に見合った権限と報酬を与える経営判断
- 「AIが作ったから」で済まさない、明確な責任分界点の設計
これらは技術の問題ではない。経営の問題であり、社会の問題だ。
おわりに
ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフは「選ばれた人間には罪を犯す権利がある」と考えた。しかし物語は、その傲慢さが破滅を招くことを描いている。
AIという強力なツールを手にした私たちは、同じ過ちを犯してはいないだろうか。効率化という「正義」の名のもとに、現場で働く人々に過剰な責任を押し付けていないだろうか。
AIの「罪」は、効率化そのものにあるのではない。その果実の分配を誤ることにある。そして「罰」は、いつか必ず、その歪みが限界を迎えたときに訪れる。
