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AIエージェント時代のエンジニアの役割変革
― AIを統治・設計・統御する者へ ―
【前編】AIガバナンスの本質と求められる変革
はじめに
2025年、私たちは歴史的な転換点に立っている。生成AIが「ツール」から「自律的なエージェント」へと進化し、企業の業務プロセスに深く組み込まれ始めた今、エンジニアの役割は根本から問い直されている。
Gartnerの予測によれば、2028年までに日常業務における意思決定の少なくとも15%がAgentic AIによって自律的に行われるようになる。2024年時点ではほぼゼロであったことを考えると、驚異的な変化だ。同社はさらに、2028年までに企業ソフトウェアの33%にAgentic AIが組み込まれ、ユーザー体験の3分の1がネイティブアプリケーションからエージェント型フロントエンドへと移行すると予測している。
しかし、楽観的な数字の裏には厳しい現実がある。Gartnerは2027年末までにAgentic AIプロジェクトの40%以上が、コストの高騰や不十分なリスク管理によってキャンセルされると警告している。Gartnerのシニア・ディレクター・アナリストであるAnushree Verma氏は、「現在のほとんどのAgentic AIプロジェクトは、ハイプに駆り立てられた初期段階の実験や概念実証であり、しばしば誤った形で適用されている」と指摘する。
AIを「統治」するための人材と体制が追いついていないのだ。本稿では、この急速な変化の中でエンジニアに何が求められているのかを、最新のデータと実践的な視点から探っていく。
なぜ今「AIガバナンス」なのか
世界的な規制の潮流
欧州連合は2024年5月にAI Act(AI法)を成立させ、リスクベースの包括的な規制を導入した。高リスクAIシステムに対しては厳格な義務が課され、違反した場合には非常に高額な制裁金が定められている。EUのAI法第14条では、高リスクAIシステムは使用期間中に人間が効果的に監督できるよう設計・開発されなければならないと明確に規定されている。
この人間による監視の目的は、高リスクAIシステムが健康、安全、または基本的権利に対してもたらすリスクを防止または最小化することにある。EU AI法では、システム導入者が適切かつ比例した方法で、異常や機能不全を検出し対処できることや、自動化バイアス(AIの出力に過度に依存する傾向)を認識し続けられることが求められている。
日本版AI法の成立
日本では2025年5月28日、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律」(AI法)が成立し、6月4日に公布された。これは日本において初めてAIに特化した包括的な法律であり、国内外から注目を集めている。
日本のAI法は、EUのようなハードローによる厳格な規制ではなく、「既存の法律+ソフトロー」およびガイドラインによる自主的な取組みを基本としている。内閣にAI戦略本部を設置し、AI基本計画を策定した上で、必要な情報提供要請や指導等を行うことを定めている。
AI法第7条では「活用事業者」の責務が規定されており、AI関連技術を活用した製品またはサービスの開発・提供を行う事業者は、基本理念にのっとり、積極的なAI活用による事業活動の効率化・高度化に努めるとともに、国や地方公共団体の施策に協力しなければならないとされている。
デジタル庁のガイドラインでも、事業者選定基準として「AIガバナンスが適用されていること」が評価観点に含まれている。AIガバナンスの構築は、もはや事業継続のための必須条件となりつつあるのだ。
AIエージェントがもたらす質的変化
従来のAIとAIエージェントの違い
従来の生成AIとAIエージェントの違いを理解することが重要だ。生成AIはプロンプトに基づいて応答を生成するが、自律型AIエージェントは人間の直接的な監督なしに行動できる。Gartnerは、「エージェント型AIは、受動的でリクエスト駆動型となりがちな従来のAIや生成AIの限界に対処する」と説明している。
AIエージェントは「知覚→推論→行動」のサイクルを繰り返し、複数のタスクを横断的にこなす「実務型AI」として進化を遂げている。これらのエージェントは単に応答するのではなく、行動し、意思決定を下し、タスクを独立して実行する。MediaTekのJames Chen氏が述べているように、「エージェント型AIは生成AIをさらに一歩進めたもの...コンピューターの中に住むエージェントがいるようなもので、基本的にはコーディネーターです」。
新たな脅威カテゴリの出現
この自律性の高まりは、リスクの質的変化をもたらしている。Gartnerは、AIエージェントに影響を与える複数の脅威カテゴリを特定している:
- データポイズニングと入力操作: エージェントが操作されたデータや誤解釈されたデータに依存することで、意図しない動作を引き起こす
- クレデンシャルの乗っ取りと濫用: 不正アクセスやデータ窃取につながる認証情報の悪用
- 偽サイトとの相互作用: 偽造された、または犯罪的なオンラインリソースへの露出により、汚染された結果を生み出す
- エージェントの逸脱: 予期しない動作やガードレール外への脱線
Palo Alto NetworksのUnit 42チームは、AIエージェントを標的とした9つの具体的な攻撃シナリオを文書化している。これらの攻撃は、情報漏洩、認証情報の窃取、ツールの悪用、リモートコード実行などの結果をもたらす。彼らの調査では、ほとんどの脆弱性と攻撃ベクトルは、フレームワーク自体の欠陥ではなく、不安全な設計パターン、誤った設定、安全でないツール統合から生じることが判明している。
Gartnerは2028年までに企業侵害の25%がAIエージェントの濫用に起因すると予測しており、外部からの攻撃者だけでなく、悪意のある内部関係者からの脅威も含まれる。AIエージェントは既に見えにくい攻撃対象領域を大幅に拡大しており、企業は外部からの巧妙な攻撃者と不満を持つ従業員の両方からビジネスを保護するよう求められている。
Human-in-the-Loopの重要性
HITLとは何か
IBMによると、Human-in-the-Loop(HITL)とは、人間が自動化システムやAI駆動システムの運用、監督、または意思決定に積極的に参加するシステムまたはプロセスを指す。AIの文脈では、HITLは正確性、安全性、説明責任、または倫理的意思決定を確保するために、人間がAIワークフローのある時点で関与することを意味する。
機械学習は近年、驚くべき進歩を遂げているが、最も高度なディープラーニングモデルでさえ、訓練データから逸脱する曖昧さ、バイアス、またはエッジケースに苦労することがある。人間のフィードバックは、モデルを改善し、AIシステムのパフォーマンスが不十分なレベルにあるときのセーフガードとして機能する。
HITLは「ループ」に人間の洞察を挿入する。これは、AIシステムと人間との間の継続的な相互作用とフィードバックのサイクルである。HITLの目標は、AIシステムが人間の監視による精度、ニュアンス、倫理的推論を犠牲にすることなく、自動化の効率性を達成することだ。
HITLの主なメリット
- 正確性と信頼性の向上: 人間の介入は、訓練が対応していないエッジケースを修正し、モデルが時間とともに改善する機会を提供する
- 倫理的考慮とバイアス軽減: 人間は規範、文化的文脈、倫理的グレーゾーンをより良く理解しており、複雑なジレンマの場合に自動化された出力を一時停止または上書きできる
- 説明責任とコンプライアンス: 決定が覆された理由を記録し、透明性と外部レビューをサポートする監査証跡を提供する
- 適応性: 新しい状況が発生したとき、人間のオペレーターは適切な決定を下し、将来の類似ケースを処理するための新しい先例を確立できる
「お前がコピペしたコードはお前のコード」
プログラマーの世界には「お前がコピペしたコードはお前のコード」という鉄則がある。生成AI時代でも、この原則は変わらない。AIの生成物に対する責任は、それを採用した人間にあるのだ。
EUのAI法第14条でも、高リスクAIシステムは使用期間中に人間が効果的に監督できるよう設計・開発されなければならないと規定されている。人間による監視は、意図された目的に従って使用された場合、または合理的に予見可能な誤用の状況下で使用された場合に生じうる健康、安全、または基本的権利へのリスクを防止または最小化することを目的としている。
Gartnerは、2028年までにCIOの40%がAIエージェントの行動結果を自律的に追跡、監視、または抑制するための「Guardian Agent」を要求するようになると予測している。人間がすべてのAI判断を監視し続けることの限界を認識し、AIによるAIの監視という新しいレイヤーの必要性を示唆している。
前編のまとめ
ここまで、AIエージェント時代における変革の本質を見てきた。Gartnerの予測が示すように、2028年までに企業ソフトウェアの33%にAIエージェントが組み込まれ、日常業務の意思決定の15%が自律的に行われるようになる。しかし同時に、40%以上のプロジェクトがキャンセルされるという厳しい現実もある。
日本でも2025年にAI法が成立し、AIガバナンスは法的な裏付けを持つようになった。EUのAI法第14条が求める人間による監視の原則は、単なる規制対応ではなく、AIシステムの信頼性を確保するための本質的な要件である。
後編では、これらの変化に対応するためにエンジニアに求められる具体的なスキルセット、Guardian Agentなどの新技術、そしてAIガバナンス体制の構築について詳しく見ていく。
【後編に続く】
